規則、規則、そしてまた規則

渋谷 浩
 (2006年6月2日)

 日本には実に規則が多い。右を向いても規則、左を向いても規則、上を向いても下を向いてもまたまた規則詰めの社会である。よくもまあ、こんなに息苦しい社会にみんな我慢して生活しているものだとつくづく感心する。日本社会に生活してみて、そのことに実体験として改めて気が付いた。

 例を挙げだしたらきりがないが、ここでは一つの例として、先日子供と一緒に映画館へ行った時の出来事を取り上げて話を進めてみよう。我々両親と高校生の子供の三人で以前から楽しみにしていた映画を見に行った時のことである。映画館で入場券を購入しようとしたら店員にこういわれた。「北海道青少年保護育成条例 の定めるところにより、午後11時以降の18歳未満の方の鑑賞をお断りいたしています・・・」???午後11時以降の映画館の入場を禁止するということは、上映時間2時間半の映画を見る場合、午後8時30分以降に始まる映画を高校生の子供と一緒に見ることができないということを意味する!「何かの冗談でしょうか?その条例とかいう規則は?」と聞き返したが、店員は「規則は規則ですから」とマニュアルどおりの答弁だった。「親が同伴していてもだめなのですか?」と聞いてみたが、だめの一点張りだった。

 この出来事は日本社会における二つの問題を浮き彫りにしていると思うので少し掘り下げて考察してみよう。まず第1に、この条例とかいう規則自体の問題について考えてみる。名前から判断して、条例の目的は、そもそも青少年を悪から保護し健全に育成することにあることがわかる。それでは、上記の例の場合の悪とは何だろうか?何から私の子供を保護する必要があるというのだろうか?我々親?それとも映画自体?もちろんこの広い世間、子供の教育を任せるべきでない悪い親が存在する可能性があるのは確かだろうが、それは例外だろう。しかも、そのような悪い親がそもそも子供と同伴で映画を見に行くような良心的なことをするだろうか?ここで誤解のないように言っておくが、見に行った映画はごく普通の健全で教育的な映画であって18歳未満禁止の類の映画ではないのである。次に、家族が一緒に映画を見に行くことは、青少年を健全に育成することにならないのであろうか?家庭崩壊が社会問題化している現代において、家族でいっしょに映画を見に行くという行為は、まさしく青少年保護育成条例が積極的に推奨すべき行為であって、禁止すべき行為ではありえない。どんな合理的な理由によって、家族が一緒に楽しく過ごす時間を、「青少年保護育成条例」によって奪い取る権利が政府にあるのだろうか?子供の教育の第一責任者は親であり、役人や政治家ではないのである。第一、他人である役人や政治家が私の子供の教育の面倒を親身になって親以上に考えてくれる訳がない。親に代わって責任をとる意思も能力もない主体に、条例によって親から子供の教育と幸せを奪い取る権利はない。

 条例の不備・非合理性は以上で明らかになったと思うので、第2に、映画館の店員の言動に現れている教育の問題について考えてみる。この店員はマニュアルどおりに客に対応していたのであるが、私が店員だったら違った対応をしていたと思う。条例それ自体が不備・非合理なものであると私自身が判断した上で、二つの対応の仕方が考えられる。一つ目は、条例を無視して客に入場券を販売してあげる。これが警察当局ににらまれる可能性がある場合には(上記の例の場合、そのような条例違反を取り締まるほど警察は暇ではないと思うのだが)、3人とも大人の料金を払ってもらって入場させるというのが二つ目の対応の仕方である。後者の場合、店員が客の一人が未成年者であるとは気が付かなかった、とういうことで問題解決が可能である。これが、当事者全員に幸せな結果をもたらす適切な問題解決方法(経済学でいうパレート最適または改善解)の一例である。このような対応の仕方を、我々自身が自分で考えつくことができなければ、より良い社会を創造することはできない。社会とは独立した個人から成立している集合体であるから、我々個人個人が正しく考え行動しなければ良い社会は成立しない。個人のために政府が存在しているのであって、政府のために個人が存在しているのではない。法は社会の構成員を幸せにするためにあるのであって、不幸にするためにあるのではない。(参考文献: 末弘厳太郎 著 「役人学三則」、岩波現代文庫(社会7)、岩波書店、2000年)

 この例から学ぶべき教訓として、我々が従うべき普遍的行動基準と教育の関係について述べておこう。まず第1に、法や規制や社会的ルールに盲目的に従うことは、最適な行動ではないし正義でもない。政府は、法によって国民に外国に行って人殺しをしてこいと命令することができる。しかし、そうすることが必ずしも正しい行為ではない場合があることは容易に考えられるだろう。第2に、法の上に位置する普遍的行動基準が存在する。合法的行為と正しい行為は必ずしも一致しない。我々は両者が一致するように立法すべきであるが、必ずしもそうなるとは限らない。法は時代と地域によって変わる特殊な規則である。人間が作為的に作った法や規則が普遍的行動基準と矛盾する場合には、後者にしたがって行動するのが正しい。ここで問題となるのが何が普遍的行動基準であるかという問いであろう。それを知るために必要不可欠な訓練が学問(=問いながら学ぶこと)である。教育の本来の目的は、そのような学問の機会を提供することにある。単に知識を詰め込んで、マニュアルにしたがって行動する人間を育てることが教育の目的ではない。マニュアルにしたがって行動するだけであればロボットで十分、人間である必要はない。マニュアルに書いてあること自体が正しいかどうかについて、またマニュアルに書いてない状況に遭遇した場合にどう行動すべきかについて、自分で考え判断し行動できる人間を育成することが学問の役割であり教育の本来の目的である。したがって、学問や教育に関するマニュアルを作成することは論理的自己矛盾である(ラッセルのパラドックス参照)。学問するのに役に立つ教材はあってもマニュアルは存在しない。そこに教育の本質的難しさがある。問いながら学ぶこと、自主的に学ぶこと、それが人間性と整合的な真の教育の姿である。

 規則、規則、そして規則づくめの日本社会が直面する問題の本質を明記しておこう。役人が役人的な行動をするのは必要悪として理解できるが(ただし、不必要悪の場合も多く存在する)、民間の人々までもが役人のように規則詰めに行動していては社会に活力がなくなってしまう。日本国内でしか生活したことのない人達にとっては、他に比較対照すべき社会の生活経験がないので、規則だらけの日本社会を当たり前だと思っているかもしれない。しかし、私の人生経験から判断しても、世界中の文化を比較対照しても、また国家の歴史的盛衰を振り返ってみても、規則詰めの社会環境の中で長い間生活していると、そのうち自主性がなくなり、創造性もなくなり、行動力もなくなって個人も社会も衰退してくるというのは事実である。すなわち、本来の人間性を失ってくる。消極的受動的な、そして不満に満ちた人間になってくる。市民ではなく臣民になってくる。自立した人間ではなく追随者になってくる。他人によって引かれた線路をひたすら走る人間になってくる。もしかすると、そのような人材を育成するのは企業や政府にとっては、色々な面で都合がよいのかもしれない。しかし、人々は企業や政府のために生きているわけではないし、追随者ばかりから成っている組織や国にはダイナミックな活力がなくなり、そのうち衰退していくことになるであろう。規則に追随する人達ばかりであったら社会の発展はなかった。権力者の作った規則に追随していたならば、宗教改革も、ルネッサンスも、科学的進歩も、産業革命も、アメリカ独立も、明治維新も起こり得なかった。すなわち、人類の進歩はあり得なかった。

 今、日本に必要なのはダイナミックな自由社会を作ることだ。ダイナミックな社会の原動力は個人の自由な発想と行動力から生まれる。自由社会とは、全て原則自由、そして規則は必要悪であり最小限にとどめるべきものであるという認識がみんなで共有されている社会である。今、日本の義務教育の現場が荒れているとよく聞くが、教育環境を役人が作ったマニュアルで規則詰めにすれば、若い人達は反抗するのは当たり前だ。しかも、教育に関するマニュアルを作成すること自体が論理的自己矛盾であり、教育の本来の目的に反する。マニュアル通りに行動する人間を育てるという擬似教育によって本来の人間性を剥奪されるのだから、若者が荒れるのは当然である。人間は、独立した個人として自由に創造的に生きるために生まれてきたのである。自分で考え、自分で学び、自分で判断し、自分で行動し、自分で責任をとる。それが人間本来の生き方である。人間の本性は自由と創造性にあり、自由は創造のための必要条件である。人間本来の能力を最大限に引き出して社会に役立てる。個人の成長と社会の発展が両立する。個人の幸せと社会の善が両立する。それがダイナミックな自由社会の真の姿である。そのような自由社会に日本を導いて行くことが政治、経済、社会の全ての面において重要である。特に、将来の日本のあるべき姿について考えた場合に、どうしても実現させなければならないこの国のかたちである。


前のページに戻る