自己と他者

渋谷 浩
(11/20/2005)

 私が子供のころ、たぶん小学生か中学生の時、答えの解からない秘密の問いがあった。この問いを自分自身に投げかけると妙に神秘的な気持ちになったのを覚えている。それは、「私はなぜ私であって他の人ではないのか?私は私である必然性はあるのか、あるとすればそれは何なのだろうか?それとも、私が他の人ではなく私であるのは単なる偶然なのか?」という問いである。

 標準的経済学の立場によると、私が私であるのは社会の根本原理であり必然であるということになるだろう。現代社会の根本である個人主義も民主主義もこの原理の上に築かれた理論である。この世の全ては、私が私であるという揺るぎのない必然性の基礎から出発しているのである。経済学では、個人の効用が全ての価値判断の根本である。私の効用と他人の効用を勝手に足したり引いたり交換したりしたりしてはいけない。そこでは私という個人はあくまでも尊重される存在であり、全ての価値の根源的原子論的存在である。このような個人主義の原理に基づけば、社会的選択の基準としては、社会の構成員の誰一人として負の効用を与えず、かつ構成員一人以上に正の効用を与える社会選択のみ許される、というパレート最適条件しか出てこないであろう。

 問題は、パレート最適条件を社会選択の唯一の根本原理として採用すれば、ほとんど全ての社会的選択が決定不可能になってしまうという点である。すなわち、パレート最適条件は、現実の社会に応用するには基準として厳しすぎるのである。この問題を克服するために、補償原理(Compensation Principles)や社会的厚生関数(Social Welfare Function)の概念が提案されたが、アロー等による一般不可能性定理によって民主主義の基本原則を満たす社会厚生関数は存在しないことが証明されている。したがって、現実社会での社会的政策決定の場面においては、個人間の効用比較を、意識するか意識しないかは別として、行っているのである。この個人間の効用比較を明示的にルール化すれば、そのルールの数だけ社会選択の基準は存在することになる。現実社会で一般によく利用されているそのようなルールの例として、投票による多数決のルールや声や政治力の大きい人の効用が重視される政治力加重平均ルール、などをあげることができるだろう。

 個人間効用の比較不可能性を前提とするパレート最適条件を一つの対極とすれば、もう一つの対極は個人間の効用の比較可能性を前提とするルールであろう。すなわち、一つは、私が私であるのは必然であり絶対であり個人間の効用の比較交換は不可能であるという立場であり、その対極は、私が私であるのは単なる偶然であり、したがって私と他者の効用は平等であって、比較交換可能であるという立場である。後者に近い立場をとるルール、すなわち、私が私であるのは単なる偶然であるという立場、を採用している例としてジョン・ロールズ(John Rawls)の『正義論(The Theory of Justice』をあげることができる。ロールズは「原初状態 (original position)」という思考実験を提案した。この思考実験では、社会を構成する人々が集まって、所得配分とか資源配分などの社会的選択を何らかの公正の原理にしたがって決定しなければならない状況を想定する。そこで使用すべき公正の原理を確立する際に、自分がどういう地位に置かれるかは自分ではわからない、すなわち、私が私であるのは単なる偶然であり社会のどのメンバーが私になるのかは自分ではわからないという状況を想定する。この想定の下で、ロールズは、最適な公正の原理は「社会の最も劣位に置かれた人物の福祉を最大化することだ」という議論を展開した。ここでは、私が私であるのは単なる偶然なので、私が他の人として生まれる可能性も考慮せざるを得なくなり、自分の効用のみを最大化するような行動基準という枠組みを超えて、社会的正義とか公正という概念が生まれてくるようになる。ただし、ロールズによる公正の原理がこのような思考実験の中から導かれる唯一の正しい原理であることは証明されていない。他の公正原理を導き出すことも可能である。

 理論的に矛盾のない妥当な社会厚生関数または社会選択の理論は現在存在しないが、社会が適切に機能するために必要不可欠な条件は何かという問題に対しては、具体的例を考察することによって、ある程度答えを出すことができる。例えば、社会の中で生きている個人にとって、他者を理解する能力が社会全体が上手く機能するために必要不可欠な条件であることだけは間違いがなさそうである。次のような身近な問題を考えてみるとよくわかる。近年、多くの都市において、粗大ごみの処理には特別料金を徴収することが一般的になってきている。それと同時に、都市近郊の農道や山道の横にテレビや冷蔵庫や家具などの粗大ごみが不法投棄してある状況を目にすることが多くなった。理由は簡単で、夜に人気のない農道や山道に粗大ごみを捨てれば捕まる可能性はゼロに等しくかつ粗大ごみ処理に必要な料金を払わずにすむので、自己の効用や利益を最大化する個人や企業が不法投棄をするのは期待効用最大化行動と一致し、その意味で合理的行動であるわけである。このような状況を見て、私ははじめ「世の中には倫理観のないろくでもない人間が多いな」と嘆いたわけである。しかし、不法投棄の数を人口で割ってよく考えてみると、実際に不法投棄している「合理的な人間」の割合は人口の数パーセントどまりではないか、どんなに多く見積もっても5%を超えることはありえない、という結論に到達した。すなわち、世の中には、「合理的行動」をする人々よりも「倫理的行動」をする人々の方が圧倒的に多いというのが現実である。だからこそ、社会が上手く機能しているといえるのではないだろうか?この結論を証明するのには、人口の圧倒的多数が粗大ごみを「合理的に」農道や山道に不法投棄したら一体どうなるのか少し想像してみるだけで十分であろう。

 利己的個人主義の提唱者のように思われている アダム・スミス(Adam Smith)は、もともと倫理学の教授であった。事実、スミスは後に有名となった『国富論(The Wealth of Nations)』を書く前に『道徳感情論(The Theory of Moral Sentiments)』を書いている。ケインズ(J. M. Keynes)流の言葉で表現するならば、「経済学はモラル・サイエンス(精神科学、人間科学)である(であった)」ということになるだろう。利己心だけで社会が最適な状態を実現しうることすなわち「利己心がある深い意味で道徳的である」ことを示したのが『国富論』ならば、利己心だけでは社会が上手く機能せず道徳感情すなわち他人への配慮が必要不可欠であると主張したのが『道徳感情論』である。19世紀および20世紀の経済学はアダム・スミスの『国富論』を理論的に緻密化することで発展してきたといえる。20世紀経済学の一番輝かしい業績が「消費者が効用最大化行動をし企業が利益最大化行動をしている完全競争市場では、パレート最適な資源配分が達成される」という厚生経済学の第一命題を厳密に証明したことであろう。では、21世紀の経済学はどのような展開を見せるのであろうか?私は忘れ去られいたスミスの『道徳感情論』の考え方をいかに現代経済学に導入し、経済学を真の意味での社会科学へと拡張していくのかという研究に注目が集まるのではないかと予想している。実際、アダム・スミス自身は二冊の著作のうち『道徳感情論』の方をより重要視していたようであり、生前最後の年に『道徳感情論』を大幅に改訂している。その改訂の内容は、主に、富の追求に伴う利己心の暴走による反社会的・反道徳的な影響に対する警告をより強くするものであった。

 それでは、他人への配慮すなわち他者を理解するということはどういうことであろうか、またそのような能力はどのようにして養われるのであろうか、という問題について考えてみよう。我々は他人の頭の中の意識や考えを直接見ることはできない。我々が世界を認識し、他者を理解する方法は唯一つ、自分の五感を通じた経験(experience)と内省(introspection)と仮想(imagination)を通じてである。精神の発達過程において、自分の外の世界と他者との相互関係を通じて様々な経験が蓄積され整理されていく。その過程の中で、他者が自分と同じ意識を持った存在であることに気がつく。それはどのようにしてかというと、自分の意識の外に一度出て、自分が経験している意識を外から客観視し内観することによって、すなわち自分を一度他者として客観的に分析することによって、自分と他者との共通性に気がつくからである。他者を自分のミラーイメージまたはアナロジーとして理解するわけである。他者を理解する能力とは自分を理解する能力の応用であり、したがって、他者を理解する能力は自分を理解する能力によって決定されている。他者を理解するということは、相手の立場や状況に自分がいた時こう思ったああ感じたという直接経験、またはこう思ったであろうああ感じたであろうという仮想と呼ばれる間接経験、によって理解できるものだからである。そのような直接経験または間接経験(仮想能力)に欠けている場合には、他者を理解することはできない。自分の経験、内省、仮想に基づいて自分自身の意識を理解している範囲でしか他者を理解することができないのである。したがって、他者を理解する能力は自分自身を理解する能力に完全に依存していることになる。

自分を知り自己を確立せよ!
多くの経験を直接獲得し、そして仮想能力を鍛えろ!
それが自分が成長し、同時に他者を理解できる唯一の方法である。


これが子供の頃の問いから始まって形成された現在の私の信条である、と同時に、若者に送る言葉でもある。


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